今年 3月末 源兵衛子育地蔵さんの横を 通りました
ここは 早稲田通り沿いで 高田馬場方面から来ると
明治通りを越し 少し歩いた右側にありますが
小さいので 殆ど目立ちません

源兵衛さんとは
どんな方で 何故 お地蔵様に名前が付いているのか
前を通る度に 不思議に思っていました
一度 ご挨拶した事はあるのですが 何時の事だったか?
久し振りに 訪ねてみたら
昨年12月に 令和の改修が あったばかりで
新しくなっていました
「西早稲田源兵衛 子育地蔵尊」の旗が立っています

中に入り右側 写真右端は 早稲田通り です

・・写真の説明は 新宿区のHPから 引用しました
馬頭観音・ばとうかんのん は
大正11年(1922年)の建立

こちらは カエル君 子供を乗せています

カエル君の上の方には 龍が首を出しています

右手奥の壁には 絵馬が吊るされ
横のお堂には 源兵衛子育地蔵が 安置されています

このお地蔵さまは
江戸初期に この地を開墾した源兵衛を供養する地蔵尊 との事


高田馬場経済新聞から引用すると
「源兵衛子育地蔵尊」は 江戸時代初期に周辺地域を開墾した
源兵衛らを供養し、功績を記念するため1726年に安置された地蔵尊。
さまざまな御利益があるとされるが、子どもに関する願い事が
成就すると伝えられたことから「子育地蔵尊」と呼ばれ、地域から
親しまれている。

お地蔵様の後ろに 小さなお地蔵様が 並んでいます
よーく見ると 違うお顔をしています

お堂の横にある 6緞の階段を上がると
右手に 小さな小屋? と 大きな石碑が あります

小さな小屋には
馬頭観音 と 十手観音

その横の石碑は 彰忠碑・しょうちゅうひ
大正3年・1914年の建立
レッツエンジョイ東京からの引用では
日清・日露戦争に戸塚村から出征した人の名が刻まれ
大変珍しい 伊予・愛媛県の青石でつくられている
この石は 関東大震災でも倒れることは無く
この地蔵尊に寝泊りした被災者もいたそうです

石碑の横に 今回の改修で 出入口が設けられていました
早稲田通りに降りる この坂は 地蔵坂通り

昨年の改修工事の冊子が ありました
小さく見にくいかと思いますが・・・
「源兵衛子育地蔵尊のこれまで」

「令和の改修」

写真「改修後・左側 と 改修前・右側」

境内の掲示板に
「100年前の新宿・約150年前の戸山絵図」の 写真がありました
一部を大きくしてみましたが
全面を見ても 山 畑・田圃 僅かな家 ばかり です

引用ばかりとなりましたが ウイキペディアから
源兵衛村・げんべえむら は、東京府南豊島郡にかつて存在した地名。
現在の東京都新宿区の一部にあたる。
1615年 大坂夏の陣後豊臣秀吉の遺臣小泉源兵衛らが
江戸に逃れ、当時荒地だった源兵衛村付近を開墾し、
源兵衛村を作った。その後、源兵衛は主に火薬の番や鉄砲の
弾を作っていた。
1726年 源兵衛の死後その功績を記念するために
地元の有権者が子育地蔵を安置した。この地蔵は今でも存在する。
源兵衛さんの事を 初めて知りました
この後 ウイキペディアには
西早稲田3丁目西部の路地裏に昔の墓を
祀ったりしている源兵衛共同墓地が現在も残っている。
と 書いてあります
思い当たる所があるので 訪ねてみました
新目白通りを 早稲田方面から 明治通りへ出る手前
左手に 緩い坂の右側に 黒い塀が見えます

坂の上の方から

源兵衛共同墓地は 立ち入り禁止で 入る事は出来ませんでした

人通りが少ないけれど キョロキョロと一応確認し
塀の上から 中の様子を写してみました

小さな墓地ですが 新しい墓石もあります
昔から今も 継いでいる方々がいて 大事にされているのですね
昔 行った事があるから 一度 行ったから と
思い込んでいては ダメですね
行ったとしても 殆ど忘れているけれど・・・
その時には 関心が無かった事でも
年月が経つと 興味ある事も変わっています
改めて 訪ねてみる事も 新しい発見になると 思いました
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